空と君のあいだに

研究と教育と日々の,思考整理の場

シルクロード横断

以前に夏の旅行計画についてメモ書きを残したが,結局「グルジアアルメニア(→ナゴルノカラバフ共和国)→イラン→トルクメニスタンウズベキスタンカザフスタン→中国」というルートで,カスピ海南岸をまわりトルキスタンを経て西安を目指した.国境の抜け方について,ガイドブックとネットの情報に大いにお世話になったので,後に続く人のためにログを残しておこうと思う.

なお,料金情報などあとから加筆したいと思います.

グルジア-アルメニア国境

この国境は昨年の夏も通ったので二度目.今回の旅の中で一番ラクな国境だった.トビリシから Ortachala Central Automobile Stationにてエレバン行きのミニバスに乗り,他の乗客とともにイミグレを通過すれば良い.厳しいチェックなどはなし.アルメニアのビザを取得していない場合はイミグレに向かって左手後方の事務所でアライバル・ビザを取得する.前回はアライバル・ビザを取得したが,今回は事前にE-VISAを取っておいた.

アルメニア入国後はバスによって通る道が異なる.僕は去年と今年とで違った(アラヴェルディ経由とディリジャン経由).どちらを通る場合もバスを途中で降りて,世界遺産に登録されている修道院に寄ることができる.ただし,同日中にエレバンまで着こうとすると,既にバスが終わっている可能性があるのでタクシーを使わざるをえなくなる.かなりボってくる.ヒッチハイクした方が賢かったかもしれない.

アルメニア-ナゴルノカラバフ検問

エレバンのKilikia Bus Stopから出るステパナケルト行きのバスに乗れば万事問題なし.アルメニア人はノーチェックで通れるが,外国人だけバスを降ろされ,検問でパスポートチェックを受けると同時にステパナケルトにてビザを取得するよう言われる.帰りに通るときはバスの運転手が僕の存在を忘れていたのか面倒がったのか,検問を素通りしてしまった.

アルメニア-イラン国境

体力的に最もしんどい国境.ステパナケルトからバスでゴリに向かう(僕はゴリ行きのバスを逃してしまったので,エレバン行きのバスに乗り途中で降ろして貰った.エレバンまでの運賃を取られたが…).ゴリからカパンまでのバスが12:00に出発するのでこれに乗り,カパンに14:00頃着く.そして,カパンからメグリまでのバスが15:00に出るのでこれに乗る.僕のときは,同乗のバックパッカーが交渉してくれたのか,このバスで直にメグリから10kmほど先にあるアガラク国境まで連れて行ってくれた.

国境を抜けるとタクシーが数台乗っているので交渉してナヒチェバン-イラン国境のあるノルドゥズまで行く.そこでタブリーズ行きのバスを捕まえれば同日中にタブリーズまで着けると思う.僕の場合,アガラク国境でスペイン人夫妻が料金交渉で粘ったので,そこで時間を消費してノルドゥズからは乗合タクシーを使うはめになった.それでも15万リアル(4-5ドル)にすぎないのだが….

イラン-トルクメニスタン国境

テヘラントルクメニスタンの通過ビザを取ったのち国境に向かう.僕の場合,どういった事情かウズベキスタンに抜ける場合,イラン側はサラフス国境,ウズベキスタン側はファラブ国境(ブハラの近く)しか解放されていなかった.トルクメニスタンは2度目で主要なスポットには訪問済みなので,当初からその予定の僕にとっては問題なかったのだが,ウズベキスタン側でヒヴァに抜けたかった人には不評だった.

マシュハドからサラフスまでは街の西側からバスが出ている.僕は国境を抜けて同日中にトルクメナバードまで到達したかったので,サラフスに前泊した.サラフスのバス停近くからは徒歩で国境まで向かう.トルクメニスタン側に渡ったらタクシーを使い適当な街に次に向かう.ただし,同乗者を見つけられなかったので高くついてしまった.僕は,テジャンまで行って,そこで乗合タクシーに切り替えたが,もっと近く,トルクメニスタン側のサラフスにも街があることを後で知った.タクシー貸し切りはそこまでにすればよかった.

なお,緩衝地帯は徒歩では越えられず,バスに乗るよういわれる.トルクメニスタンのイミグレの前後で2回.それぞれ1ドルと2ドル相当のリアルを払った.

トルクメニスタン-ウズベキスタン国境

トルクメナバードからタクシーでファラブまで行くだけ.トルクメナバード自体,国境から非常に近いので特に困りはしない.ただし,ウズベキスタン側には客引きをするタクシーは停まっていなかった.ひょっとしたらタクシーかもという車はあったが,他の利用者を待ちたくなかったので(同日中にサマルカンドまでたどり着きたかったので),一緒に国境を渡ったトラックをヒッチしてブハラまで連れて行ってもらった(トラックはサマルカンドまで行くみたいだったが,少しブハラを歩きたかったので途中で降ろして貰った).この国境はヒッチが必須かもしれない.

なお,緩衝地帯は徒歩では越えられず,バスに乗るよういわれる.トルクメニスタンのイミグレの前後で2回.それぞれ1ドルと2ドル相当のマナトを払った.

ウズベキスタン-カザフスタン国境

タシケントからタクシーで国境に向かう.流れで,ホステルのオーナーが車をホステルまで手配してくれたのでそれを使った(高くついてしまった.後悔).ウズベキスタン人やカザフスタン人が大勢,この国境を利用するのでタクシーなどには困らない.通過もスムーズ.

カザフスタン-中国国境

アルマトゥイからコルゴス国境を利用した.目標は中国のイーニン(グルジャ).7時発のイーニン行きのバスがあるらしいのだが,早起きするのが嫌だったので,ジャルケントまでタクシーで向かい,そこでタクシーを利用することにした.この判断は誤り.8時半ごろバスターミナルに着いて,そこでジャルケントまでのタクシーはすぐに見つかったものの,同乗者がいない.9時発の公営バスがあるらしく,おそらく人はそちらに流れてる.退屈しのぎにターミナル内をうろついてるときに後でそれを知った.時すでに遅し.ただ,運良く9時20分発の私営バスがあると客引きが行っているので,それに乗っかることにする.なんだかんだ客を待って10時に出発.

途中,昼食休憩を1時間挟んだり,時速20km程度でしか走れない未舗装の道路があったりして,なんだかんだジャルケント着が16時45分ごろ.国境が閉まるのが18時.しかも翌日は日曜で国境が閉まるので,これを抜けられないと大きなタイムロス.道中は気が気でなかった.ジャルケントにて,バスに同乗のカザフスタン人がコルゴス方面行きのタクシーを見つけてくれてそれに乗る(多分,国境の門限を察して親切にしてくれた).結局,17時40分ごろに国境に着いて,なんとか滑り込みセーフ.国境地帯に入る際,タクシーの運転手と守衛の人が何か話していて,降りるとき,タクシーの運転手がチップをねだったので,たぶん,通過ぎりぎりだったのだろう.実際,僕より後ろには人がいなかった.

カザフスタンのイミグレを抜けた後,徒歩では国境を越えられず,ミニバスに乗るよういわれる.これが酷い.20人乗りのミニバンに40人程度がすし詰めにされる.しかも,そのお値段10ドル.一部に,アルマトゥイからウルムチ(ないしイーニン)まで直通のバスを使わずに,僕のように複数のバス・タクシーで刻んだ方が安いという話があるらしいのだが,全くそんなことはなかった.

中国側のイミグレはすんなり通過.かなりフレンドリーで,物珍しげに僕のパスポートのスタンプ履歴を覗いていた(そこで,丹東のスタンプを目ざとく見つけて,「お前,北朝鮮行ったことあるのか!」という会話になった).中国側に抜けたら,両替商やタクシーが大量に待っているので,そこから問題なくイーニンに迎える.

夏の旅行の覚書

授業に追われる日々で1学期間全く更新できなかった.夏の旅行に向けた準備の覚書を.

まず,8/1発-8/31着のグルジアトビリシまでの往復旅券を購入しました.グルジアからアルメニアを抜け(途中,ナゴルノカラパフ共和国を覗きつつ),イラン,トルクメニスタンウズベキスタンカザフスタンを経て中国まで入ることを目標にしたいと考えています.グルジアカザフスタン,中国はビザなしで入国が可能,アルメニア,イラン,ウズベキスタンは観光ビザを取得済み,トルクメニスタンのトランジットビザはテヘランで申請しようと考えています.中国までの到達はあわよくばで,最低限の目標はウズベキスタンタシケントまでですね.

先ほど,調子にのってウルムチ南 (08/29/2016 18:05)発ー北京 (08/31/2016 09:39)着のZ180列車の寝台券を予約してしまいました.ウルムチに8/29までに着けそうだったらトビリシまで飛行機で戻るのはやめて,北京から東京まで帰ってこようと考えています.

できればトルコのイスタンブールから入りたかったのですが,昨今のトルコの治安を鑑みて諦めました.実際,イスタンブールは過去2回訪れているので観光的な視点ではさほどの興味がないのですが,あくまでシルクロードの横断が主目的なので残念ではあります.とはいえ,コーカサスから中央アジアは攻められていた一方で,イランや中国の新疆ウイグル地区は未開拓なので,これらだけでも十分に楽しめるだろうと期待しています.

夏の旅行,計画編:その1

ここのところ旧ソ連圏を通ってシルクロードを横断することがライフワークの1つとなっている.2014年の夏にウズベキスタンを横断した*1のをきっかけに,2014年冬にはコーカサスを抜けてトルクメニスタンからウズベキスタンまで,2015年夏にはジョージアからアルメニアを旅した.心残りは2014年冬の旅行である.時間の関係でアゼルバイジャンから中央アジアへは空路で「省略」してしまった.やはり国境は陸路で越えねばならぬ.

そういう由縁もあり,今夏の旅行は陸路でイランからウズベキスタンまで抜けようと考えている.理想的には,トルコからイランに入り,トランジット・ビザでトルクメニスタンウズベキスタンまで向かえればと考えているがはてさて.トルクメニスタンウズベキスタンは既に行っているので通過することが目的.ハイライトはイランになるのだろうか.トルコからイランに入る際はアゼルバイジャンの飛び地,ナヒチェヴァン共和国を通れればと考えている.

トルコ国内で時間を使いたくないので,国境に比較的近い,エルズルムまでトルコ国内線で入ってしまうのが最善手だろうか.その場合,帰路が問題となる.往復航空券だとタシケントからイスタンブールまで戻ることになるがこれは時間的にも金銭的にも無駄だろう.簡単に料金を調べたところ,東京からエルズルムまでイスタンブル経由の片道航空券で約7.8万円,タシケントから東京までインチョン経由の片道航空券で約5.6万円で行けそう.イスタンブルまで戻ると16万円程度かかるので,片道航空券を買うプランの方が良さそうだ.トルクメニスタンのビザが取れなくても,テヘランからタシケントの航空券が5万程度で買えそうなので,最悪,ここで妥協するか.

日数のカウントとしては,テヘランまでナヒチェヴァン経由で1週間,イラン国内で2週間,トルクメニスタンからウズベキスタンまで1週間といったところだろうか.タシケントに早く着いてしまったら,これまで訪れられてないフェルガナ盆地あたりに行けば良い.

以上のプランを採用すると,東京でウズベキスタン・イラン・アゼルバイジャンのビザを取り始める必要があるのでそろそろ動き始めたい.

以下,トルクメニスタンのトランジット・ビザをテヘランで取得するにあたっての検索覚書.
テヘラン トルクメニスタン ビザ - Google 検索
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*1:もちろん?きっかけは森薫さんの『乙嫁語り』である

web空間は対話の場になりうるか

メーリングリストで嫌な議論?を目にしたので.

「(外の世界の)対話こそ大事」という類の主張をする人間が,ときとして意見を異にする内の世界の人間に対して攻撃的な態度を取る現象にどんな名前をつければよいのだろうか.内輪のメーリングリストではなく,任意参加のものであればその場で結論を出すことに意味はない.その一人に強硬的な態度をとってしぶしぶYesと言わせた所で共同体全体で同意を取れたわけではないのだから.
意見を異にする人間を知ることができればその時点で目的は達せられたと考えればよいと私は考える.持論で相手をねじ伏せようとすることを含む攻撃的な態度は,自己満足に過ぎない.

TwitterなどのSNSが普及した当初,多様な人間と意見交換できることに時代の変化を感じたものだが,最近はその限界も認めざるを得ない.そもそも現実世界での体験を基にした意見なぞ,webでちょろっと触れあった人間のそれでかわるとも限らない(かわる場合もある).先述のように結論を出すことを急いては,今まで顕在化しなかった摩擦が露呈するだけだ.どうせ結論を出せないのなら,意見を異にする相手を認知する程度を到達目標にすればいいじゃないか.荒れる話題ほど意見の収斂にはタイミングが大事なのだと思う*1

その点「政治」「野球」「宗教」の話はタブーとはよく言ったものだ.

*1:これは国交正常化交渉などと同じだなと気づいた.数十年前の人間はまさかアメリカとキューバが国交正常化交渉するなんて思わないだろう

アルメニアにて

最近,アルメニアアゼルバイジャンが,<アゼルバイジャンの自治州>ないし<アルメニアの傀儡国家>である「ナゴルノカラパフ共和国」を巡って衝突したというニュースを聞いた人も多いと思います.両国はそれぞれ昨夏と一昨冬に旅したのですが,まぁ両国にとっての一見さんからしてもお互いにヘイトを飛ばしあってるのが見えて,興味深いのですが,隣国同士仲が悪いなんて世界中あちこちに見るものですよね.そういえば,アルメニアで出会って一部行程を共にしたバックパッカーがいるのですが,それぞれ韓国,中国の出身だったなぁと思いだした.まぁ歴史問題で揺れてる日韓中(「中」といったら香港人だと怒られそうだが…)ではあるのですが,アルメニアをこの三国の人間が共に旅をしたって感慨深いものがあるなぁとナゴルノカラパフの話を聞いて思った.

小学校では地動説を教えない?!

最近,一部で話題になっているこの記事に関して思う所.
togetter.com
最初に結論を述べると,まとめ主の言いたいことも分からなくはないが(部分的には肯定できる),焦点が絞れていないがためにコメント欄での議論が発散してしまっていると私は感じている.


まず,@kumi_kaoru氏の地動説の指し示す範囲が不明瞭である.一口に地動説と言っても多様である.例えば,高校地学の資料集などに掲載される中にも

  • アリスタルコスは月食における地球の陰の大きさなどから,地球,月,太陽の中で最も大きいものは太陽であると考え,その太陽こそが中心にあるべきと考えた
  • コペルニクスは惑星の逆行運動などを説明するには,プトレマイオスの理論のように離心円,周転円,エカントを導入する必要がなく,太陽が中心にあれば良いと考えた.

といった複数の地動説理論がある.前者は地球,月,太陽の3天体に関する体系で,後者は水星から土星までの惑星系に関する体系である.小学校の理科で取り扱うのは地球,月,太陽までなので前者が話題の中心なのだろうか.ただ,アリスタルコスの地動説には論理の飛躍があり,万有引力の発見されていない当時に最大の天体が中心であるとする合理的な根拠はない.かつ,根拠となった観測にも大きな誤りがあることが知られている.そのため,科学史としてはともかく科学として学習する題材には直接はならないだろう.


ところが,@kumi_kaoru氏の主張である「小学校で地動説を教えない」の論拠の一つとなっている東京書籍の見解では下記の回答がなされている.

小学校理科に対するQ&A
Q: 3年の太陽の移動についての説明で,「太陽は,いつも少しずつ動いています」と言うと,天動説ではありませんか?「太陽の位置が少しずつ変わるからです」の方がよいと思いますが。
A: 3年で,物によって地面にできるかげの位置の変化をとらえる際に,太陽の動きと関係づけて取り上げるように学習指導要領では規定されています。ご指摘のように天体全体の日周運動にまで視点をあてると,天動説に問題が及びますが,当該の学習では太陽の位置の移動を見かけの動きを前提にして取り上げるよう規定されているため,教科書では「太陽は,いつも少しずつ動いています。」と示しています。また,次項では太陽の日周運動を考え,観察する設定になっていますが,これについても学習指導要領では「太陽が東から南を通って西に動くことを取り扱うものする。」と規定しているため,太陽の位置の移動については単元全体として統一した表現にする必要があります。さらに,発達段階から考えても,小学校では,子どもが観察でとらえたありのままの表現として「……太陽は,少しずつ動いています。」としています。地動説的な見方は,地球の自転,太陽系での太陽と地球の位置関係などがわかって初めて理解できるものと考えていますので,中学校での学習内容と判断しています。

中学で学習する主に地動説は惑星系も含めたコペルニクスの再発見した体系を含むものであり,これには惑星運動も含まれる.小学校では惑星を学習していないので,氏の主張はコペルニクスの体系にはないだろうと考えられたが,ここでこの資料を引用しているあたり,コペルニクスの体系を指す可能性もある.この時点で主張の焦点がどこにあるのか分からないので議論は行きどまりになる.そもそも科学的には太陽が中心にあると判断する合理的根拠は肉眼による太陽,月の観察からは得られないはずだ.


主張の焦点がぼけている以上,相手の主張に推測を重ねるわけにはいかないので以下は私の見解である.


小学校理科では地球から見た天体の運動をまずは取り扱うことになっている.「固定された観測者と天球面」は天動説的かもしれないが,それ自体は天動説ではない.天球面は地球から見た天体の運動(つまり,直接の観測量)を記述する手段であり,この手法自体はモデルや学説に依存するものではない.地上から天球面上に記録した天体運動から規則性を見つけようという身近な理科を尊重しているのが小学校理科であり,これが題材となること自体には全く問題はない.繰り返しになるが,これは必ずしも天動説を意味しない.つまり,小学校で学ぶ「太陽や月の運動・見え方の理解」と「天動説/地動説のパラダイムシフト」は別の話題なのだ.小学校で大事にしているのは前者.小学校では確かに地動説にふれてないけど,同時にそもそも天動説すら扱ってはいない.


ただ,現行のカリキュラムにも問題点がないわけではない.地球の自転・公転と天体運動の結び付けは中学で学習することになっている.つまり,太陽と地球の相対運動において,小学校までは地球を原点においた座標系だけが採用され,太陽のみ動く視点だけが取り扱われる.一方,相対運動の解釈においてこの議論は片手落ちで,太陽に座標原点をおいて地球が動くという解釈(あるいは両方が動くという解釈)があっても良いはずである.この点は天文教育普及研究会から出された時期学習指導要領の要望書*1でも指摘されており既出の話題である.ただし,これも従来は多くの学習者にとっては困難な話であった.天球面における天体の二次元運動と,三次元の宇宙空間における天体運動をを結びつけるのは学習者にとって想像以上に難しい(そして,分かってしまった人にとってはその難しさが分からない).特に,地球を俯瞰する視点での観測量がないのに,天球面の運動と結びつけろというのは空間把握能力が育っていない子には酷な話である.ところが,現在だと気象衛星等の充実で俯瞰する観測量が得られているので,地上からの視点と俯瞰する視点を結びつける手段の一つとなっており,敢えて地球が動く可能性に触れない必要もなくなってきた.つまり,現在進行形で改善の進む分野なのである.


以上で述べたように,確かに現行カリキュラムに手落ちがある.だが,@kumi_kaoru氏の批判の矛先が果たしてその部分(太陽と地球の相対運動の解釈)に向いているのか,それとも惑星系を含めた地動説を向いているのか不明瞭である.後者を指しているのだとしたら同意できないが,前者を指しているのなら同意できるといったところだろうか.

狭間の人,コペルニクス

成績処理やら新年度のクラス分けも終わりあとは終業式(と成績不振者への対応)を残すのみとなった.今年度は副担任だったもので,ホームルームやら何やらにはそこまで主体的に関わることがなかったが,担当クラスも明日で解散することを考えると名残り惜しいものがある.

さて,天文学史の講義録の続きである.前回の記事ではコペルニクスの地動説モデルとプトレマイオスの天動説モデルの違いについて触れた.
rinsan.hatenadiary.com
今回はコペルニクスの時代の中での位置づけについて触れたい.世界史教諭が担当したパートの解説になる.コペルニクスはその地動説で世界を変えたと言われるが,その転換には100年を要しており,彼一人が劇的に世界を変えたわけではない.彼がなぜ天動説を変えられなかったのか,科学的にはガリレオの開発したような天体望遠鏡がなかったからなのだが,歴史的にどのような背景があったのか同時に解説した.

中世の西ヨーロッパ世界

フランク王国東ローマ帝国

4世紀,ローマ帝国が東西に分割されると,東ローマ帝国は当時栄えていた東方に軸を移す.一方の西ローマ帝国ゲルマン人の侵入を受け,皇帝が暗殺されるなど混乱に陥る.その中で教皇を中心としてローマ教会独自のヨーロッパ運営が始まる.

ローマ教会による布教活動は民間人対象のものと知識人対象のものとに分かれた.前者に関しては,ゲルマン人もその対象に含まれ「祈り働け」を合言葉に修道会中心の布教が行われた.その際,地母神とマリア像を重ね,マリア像の存在が広く布教するために重要視された.一方,後者,知識人に対しては東ローマ帝国に残っていた「都合の良い知識*1」が凝縮され西ローマ帝国に伝わっていった.

その後,8世紀ごろフランク族が台頭し,フランク王国が西ヨーロッパを統一する.ゲルマン人カトリックに改宗し,フランク王国カトリックは相互に利用しあって西ヨーロッパの世界体系を確立することになる.

カール大帝フランク王国カロリング・ルネサンス

西暦800年にカール大帝が皇帝となると文化的な隆盛が訪れる.カール大帝ゲルマン人ネットワークの構築を目指すが,そもそもゲルマン人は文字を持たない.そこでラテン語による知識の集約が進む.

が集められキリスト教化以前のローマをめざす運動が盛んになった.この動きはカロリング・ルネサンスと呼ばれる

神聖ローマ帝国と12世紀のルネサンス

11世紀に神聖ローマ帝国は十字軍による侵略を活発にする.ヘレニズムと同様,侵略により人の移動が起こると,同時に知識の交流もはかどる.実際,カロリング・ルネサンスで志半ばで終わった資料収集がこの時代にはかどり,これが12世紀のルネサンスに繋がることになる.このとき,当然ながらキリスト教に都合の悪い資料も集まるわけだが,そこでキリスト教の教義と矛盾しないような解釈が試みられる.そこで誕生したのがスコラ哲学であり,これが後の普遍論争への道筋が生まれることになる.

神学者コペルニクス

このように西ヨーロッパ世界はキリストの教義と,それにふさわしくない古代ギリシアの知識の矛盾解消が1つのテーマになっていたわけだが,コペルニクスはまさにその渦中の人物だと言える.彼は15世紀のカトリックお墨付きの神学者である.しかし,天文学を大学で修めるうちに地動説の数学的な美しさ*2に気づいてしまい,おそらくは天動説を含むキリスト教の教義の間で彼の気持ちは揺れ動いたのだろう.その名残は彼の著作『天球の回転について』の前文で垣間見れる.

『天球の回転について』の前文には以下の記述がある.

それらの仮説が真である必要はなく,また本当らしいということさえなく,むしろ観測にあう計算をもたらすかどうかという一事で十分だからである

1つの同一な運動の様々な仮説が時節互いに対立するとき(たとえば,太陽の運動における離心円と周転円),天文学者なら,理解するのに最も容易なものの方を特に取り上げるであろう.おそらく哲学者なら,本当らしい方をむしろ要求するであろう

もし神から啓示されたのでないならば,天文学者も哲学者も,確実なことを何ほどか理解することも,あるいは取り扱うこともないであろう

古代の少しも本当らしくない諸仮説と並んで,これらの新しい諸仮説も知られるようになることをわれわれは許すことにしよう

あくまで地動説が仮説の1つであり,天球の運動を都合よく解釈できるに過ぎず,神がそれを正しいものとは限らず,ただ一方で哲学者なら真のものとしうることが明記されている.キリスト教に対して予防線を張っているのだろう.コペルニクス天体望遠鏡を持たなかったため,技術的に地動説を立証することは不可能だった.加えて,このようにキリスト教と当時の自然哲学の狭間に立った天文学者だからこそ地動説に舵を切りきれなかったのかもしれない.

*1:神の存在をおびかさない程度のヘレニズム書物.キリスト教を国教として以後,古代ギリシアの知識のうちその教義と矛盾しないものだけが東ローマ帝国に残った.残らなかったものの一部はイスラーム世界を経由して中世に再びヨーロッパ世界に入る.

*2:前回の記事で解説したように,地動説だとより少ない変数,よりシンプルなモデルで天体の運動を説明できる