空と君のあいだに

研究と教育と日々の,思考整理の場

プリンキピアの意義

しばらく天文関係の研究会から遠ざかっていたが,春に天文学史研究会で講演することにした(天文学ではなく天文学史だけど).一応,ジャンル的には史学系の研究会だけど,まさか史学方面で話することになるとは数年前は思わなかった.会場は国立天文台だし,参加者の中に現代天文学やってる人も多いのだけど.

さて,天文学史の後半のスケジュールを考えている.結果,ニュートンまで到達できればと思うに至った.ニュートンは力学を体系化した点で称えられているが,彼は天文学者とも言える.そもそも力学体系を築けたのはケプラーが惑星運動の3法則を見出せたからである.そもそも力学体系を築くに当たってのモチベーションは天体運動にあったわけだ.もちろん,天文学者であると同時に実験室スケールの現象を扱う物理学者でもあった.そういう意味で,ニュートンは天体運動と地上の現象の各法則に同一性を見出し,両者を統一したという点で優れている.だが,その見方は表面的かもしれない.

プラトンアリストテレス(及びその時代の自然哲学者)は,地上の現象が「善」なる何かに支配されていると考え,地上の世界と星々の世界を分けて解釈していたわけだ.だからこそ天動説が生まれた.ニュートンは星々の世界と地上の世界を結びつけ,両者の分離を終わらせたと言える.つまり,天文学の世界からアリストテレス的宇宙観を完全に追放したという意味でニュートンは偉大なのかもしれない.

天文学史におけるイスラーム世界の役割

引き続き,天文学史の講義の概要.前回の内容はこちらにて.
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前回までで,地中海世界で育まれた天動説理論の話はひと段落.今回は地動説への転換に向けてイスラーム世界に触れた.スケジュールを組む段階では,この回は全体の流れから浮いてしまうのではないかと危惧していたが,それは杞憂だった.チームティーチングという形式に慣れてきたのもあるが,世界史教諭の方と非常に良い掛け合いができたと思う.以下,概要をまとめる.

ルネサンス前史

天動説から地動説への転換には価値観がまず変わらなければならない.従来,アリストテレス的な宇宙観を含む理論が重視されてきたために天動説が大きな位置を占めてきた.ルネサンス以降ではこれが観測術の正しさに重きが置かれるようになるが,そのターニングポイントがどこにあるのか眺めるのが今回の講義である.

帝政ローマの保守化

313年,帝政ローマはミラノ勅令によりキリスト教を国教とするようになる.これは,パレスチナなど現在のキリスト教が聖地とするような地がローマ帝国の領土になったことが遠因になるのだろう.

395年,ローマ帝国は東西に分裂する.この当時,経済の中心はバルカン半島以東であり,帝国を分割統治するにあたり正帝がいわゆる東ローマ帝国を,副帝が西ローマ帝国を統治することになる.西ローマ帝国は「田舎」であり,ギリシアの知識は東ローマ帝国に引き継がれることになるが,時代が進むに従いキリスト教に都合のよい学問のみが残るようになり,都合の悪いものは排除されるようになる.このとき,排除された学者はササン朝ペルシアに逃れる

知識の中継点としてのイスラーム世界

結果的に,ペルシアは学問を後世に引き継ぐにあたり都合のよい土地であった.紀元前4世紀のアレクサンドロス東方遠征によるペルシア支配以来,現地にはギリシア語話者が残っていた.彼らはギリシア語とペルシア語の両方を話し*1,東方に逃れてきた東ローマ帝国の知識を吸収する.多くのギリシア語の学術文献もペルシア語に翻訳される

その後,ペルシアはイスラーム化されることになる.イスラム共同体の中で生まれた王,カリフがこの地を統治するようになる(アッバース朝ペルシア).この当時,イスラム教徒であれば民族問わず「国民」になれた.従って,民族的には多様性に富んだ集団であり,戒律などには比較的寛容であったらしい*2

12世紀になるとユーラシア民族がペルシアに侵攻する.イル=ハーン国,いわゆる元だ.このとき,中国の実学的な思想がペルシアに流れ込み,価値観の転換が進む.ここで,中国の実学とはどのようなものだろうか.例えば,暦を考えると分かりやすい.地中海世界では太陽暦をこの当時用いていたが,中国では太陰暦を採用していた.しかし,太陰暦では太陽年での1年と月の数がずれてしまう.そこで,この観測結果にあわせるように閏月を入れ辻褄をあわせる.あくまで観測重視なのだ.これが,ギリシア人だと理論の構築に技を求めたのだろう.

イル=ハーン国はやがて滅びるが,その後,中央アジア諸国を統治したティムール朝地中海世界からの知識と中国での実学的な思想が出会う.シルクロードの交易拠点であり,資金が豊富だったこともあり,多くの学問所(マドラサ)が設けられるなど学問が発達する.この地域では「イスラーム倫理学(文献学)」と「インドの倫理学(観念的)」と「中国の実学」と「ユーラシア交易による経済力」が結びついたのだ.

イスラーム世界における天文学の例

先に述べたようにティムール朝では学問が奨励され,天文学も発達する.これはある程度必然的なできごとである.イスラム教では礼拝のために「メッカの方角」や「時刻」を正確に把握する必要がある.また,大陸交易では現在地や方角を正確に知る必要がある.

さて,ティムール朝の第4代君主であるウルグ・べクは天文学者でもあった.サマルカンドには「ウルグ・ベク天文台」の遺跡が残っている.そこでは太陽年の長さを25秒の精度で計測していたらしい.これは後世にコペルニクスが測定したものより正確であったようだ.現地に残っているのは,その際に使った四分儀の一部である.半径約40mの四分儀を用いて,太陽の南中高度を1分角を切る精度で精確に計測していた.
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さて,この精度は妥当なものだと容易に計算できる.人間が目測で0.1mmの精度で長さを測定できるとすれば直径10cmの分度器での角分解能は約0.1度となる.これが直径100mなら0.0001度である.太陽の南中高度は半年で約50度変化する.これをは1分あたりで1/6000度,つまり0.0001度になる.講義では分度器を用いて紙面上の角度を測って貰い,ばらつきを確認して,ウルグ・ベク天文台四分儀の大きさを見積もって貰った.

イスラーム世界を経由した天文学

ウルグ・ベク天文台に付属する博物館には数多くの天文観測装置が収蔵されていた.講義の最後にこれを簡単に紹介するとともに,日本国内にもそれらが暦とあわせ江戸時代に輸入されていたことを紹介した.具体的には,貞享暦を定めた渋沢春海の肖像画には渾天儀が描かれているが,渾天儀に相当するものは元の正史にも記述があるし,博物館にも収蔵されている.また,貞享暦は元でつくられた授時暦に時差の補正をしたものである.あるいは,博物館に収蔵されているアストロラーベと呼ばれる計算器具は,プトレマイオスの『アルマゲスト』の補遺で使用法について解説されている.これらの知識がルネサンスで西洋に導入されるのだが,それはまた次回の話.

*1:この当時のギリシア語とペルシア語が融合した結果新たなギリシア語であるコイネーが生まれ,これが現在のギリシア語の起源となっている

*2:このアッバース朝ペルシアこそいわゆるイスラーム帝国であり,ISがめざす領土はこのイスラーム帝国の支配地域にそうとうするのだが,当時,比較的寛容な人々がこの地に住んでいたことと現在のISの厳格な様相を比較すると興味深い.

天動説理論の精緻さ

授業の準備で一杯一杯になってブログを更新できなかった.毎週土曜に開講している天文学史の講座の概要を再び.前回書いた内容はこちらにて.今回はその続き.
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前回の講義ではプトレマイオスが,『アルマゲスト』にて天動説理論の根拠とした観測において,ヒッパルコスのデータを剽窃した疑惑があることを紹介した.敢えてプトレマイオスを「悪者」として紹介したが,それは実は偏った見方である.とはいえ,その導入は意図的なものである.この回では「悪者」という評価は現代の価値観に基づいていること,当時の哲学では「悪」ではないことを伝えることを主眼とした.

現代天文学における分野分類

現代天文学では「理論」と「観測」が大きく分けた2つの分野である.後者で得られた「データ」に対し,前者に基づく「モデル」を構築することになる.これは天文学に限らず自然科学全般でとられている手法である.

データに対するモデルの当てはめ

「データ」と「モデル」の関係の例として,まず小中高で度々登場する「バネの伸び」と「バネに下げたおもりの数」の関係を紹介した.「おもりの数,  N」に対応する「バネの伸び,  x」についていくつかのデータ点が得られた場合,例えばそれを
{x = aN}
という数式でフィッティングするより,
{x = aN+b}
でフィッティングした方がデータを上手く説明できるだろう.ただし,データを上手く説明できる数式ならどんな数式でも良いわけではない.

多項式での当てはめの例

例えば,以下のデータを考えよう.これはTwilogで取得した僕のTwitterアカウントにおける投稿時間の分布である(横軸の左端が午前6時で,右端が24時間後を示している.つまり,横軸で0.25の変化は6時間の経過を示す).このデータに高次の整式をフィッティングすることを考えよう*1
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1次の整式の場合: 深夜帯で活動的なことに影響されて右肩上がりのグラフになるが,データを全然説明できていない.
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2次の整式の場合: 深夜帯で活発になって明け方に向かっておとなしくなる様子は見て取れるがまだまだ.
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3次の整式の場合: 良い具合になってきたが,奇関数なのでグラフの左端,明け方におとなしかった様子が説明できない.
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15次の整式の場合: さすがに15次関数ともなればデータは上手く説明できてくる.
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このように,数式の変数を増やせば任意のデータを上手く説明できるようになるのだが,果たしてそれで良いのだろうか.具体的には,上記の例で言うところの15次式には何の意味があるのだろうか.データを説明するモデルは何らかの意味を持った合理的なものでなければならない.

再び「バネの伸びの例」

「おもりの数,  N」に対応する「バネの伸び,  x」の例では,定数項を導入することでより数式はデータを上手く説明できるようになる.ただ,これが合理的なのは,定数項が「バネ自体の重さでバネが伸びる効果」を意味しているからである.このように,モデル及びそれを反映した数式は何らかの合理性を持たなければならないのだ.

プトレマイオスの天動説理論

プトレマイオスの天動説理論は,単に各惑星が地球の周りを回るだけでなく,

  • 周転円*2
  • 離心円*3
  • エカント*4

という3つの要素によって観測データを説明しようとしたところに特徴がある.

ただし,これらを全てプトレマイオスが考案したわけではない.周転円はアポロニウスによって導入されている.アポロニウスは円錐の切断面が楕円,真円,放物線,双曲線になるという,円錐曲線論を体系化した人物として知られる.高校生にとっては「アポロニウスの円」の方が馴染み深いだろう.いずれにせよ,現代に通ずる数学的な背景を持った人物である.彼はアレクサンドロス帝国分裂後の安定期にアレクサンドリアで過ごした学者であった.また,離心円はヒッパルコスにより導入された.ヒッパルコスが地理学者,天文学者であることは前回の講義で触れた.彼は共和制ローマが内乱に見舞われた「紀元前1世紀の危機」頃,ロードス島で観測に取り組んだ人物である.そして,ローマ帝国の安定期「パクス・ロマーナ」頃に活躍したプトレマイオスが導入したのがエカントである.

プトレマイオスの天動説理論の根拠となった観測データは,前回の講義で述べたように確かに疑惑を含んだものである.だが,天動説理論は長い間をかけて構築され,アポロニウスなど数学者が絡んでることから分かるとおり,緻密な数学に基づいたものでもある.実際,その精緻さがひとつの要因となって,その後1400年もの間,プトレマイオスの天動説理論は世界を席巻する.ただし,問題点がある.確かに「周転円」「離心円」「エカント」と要素を増やしていくことで観測データは上手く説明できるになったが,要素を増やしてデータを上手く説明できるようになるのは,データ点にフィッティングする多項式の次数を増やすようなもので,当然である.各要素に合理性がなければならないのだが,天動説の数理モデルはad hocで合理的でないのだ.

古代の自然哲学者の議論

天動説の例から読み取れるように,古代の「自然科学者」は理論重視であり,相対的に観測に対する認識が甘かったわけだが,これは当時の学問的背景を考えると至極当然のことではある.そもそも,それゆえに彼らは「自然科学者」ではなく「自然哲学者」と呼ばれている.

起源はソクラテスに遡る.彼らは人間社会における「善」なるものの追求のために議論を行っていた.それが,紀元前4世紀ごろ活躍したプラトンは「善」なるものを「イデア」に見出した.世の中のあらゆるものには「イデア」があり,人間に見えているものはイデアから派生した事物だというのだ.そのため,人間に見えている観測データより,「善」なるものに相当する理論が重視された.極端な話,理論を優先させるために,観測データをでっちあげることに何の抵抗もなかったわけだ*5

古代の自然哲学者の議論を解説する場面では,「正義」「幸福」「神」「徳」の4つからテーマを1つ選んで貰い,それらが何なのか定義づけを行うというグループワークを行い,その議論の過程を体感して貰った*6.意外と熱心に取り組んでくれ,難しさを分かってくれたようで,古代の哲学者が生涯をこれらにかけたという話にも納得がいったようである.

また「天動説の理論に合理性がない」と述べた点について「これで駄目なら何が合理的かわからなくなる」との反響があった.それは非常に良い着目点で,これがまさにガリレオ登場まで地動説が確定しなかった答えにもなる.良い伏線を敷けたと思う.

この回は,世界史教諭と前でかけあいのような形で会話しながら授業を進めるつもりが,時間を気にしながらだったもので,生徒には「時間通り進めようとして,世界史教諭をスルーするところが面白かった」と書かれてしまう始末.ゆとりというのは大事ですね.ただ,少しずつチームティーチングという形式に慣れてきて,授業が面白くなってきた.

*1:本来は周期関数でフィッティングするべきで,フーリエ級数の方が妥当なのだろうが,高校生にとってなじみのないものなので今回は敢えて整式を用いた

*2:惑星の逆行運動を説明するために導入された.

*3:惑星の等級が変化することを説明するために導入された.

*4:離心円を導入したことで惑星の速度が不自然になることを解決するために導入された.

*5:これも近代科学成立以前の話だからできたことではある.近代科学が成立すると,出世欲だ名誉だ金銭的対価だ何だで結局,観測データのでっちあげはなくならないのだが

*6:もちろん,僕ではなく,世界史教諭の主導

捏造疑惑

先週の土曜に行った天文学史の講座の概要.前回の内容はこちら*1でフォローしていただきたい.

前回,社会科教諭からはギリシア哲学の導入を,僕からは「天球面上における角度スケールの体得」と「相対運動の観察において観察者と目標物の運動が縮退すること」をテーマに話をした.全8回の講座のうち,前回の1回だけは2学期中に行われる授業だったため,実質的に前回はガイダンスであり,先週土曜の3学期初回授業が本当の意味での講座の始まりとなった.以下,まずは講義の概要をまとめる.

社会科学編

アレクサンドロス以降の地中海世界の変遷

マケドニア

マケドニアは,ギリシアにあったポリスから見たら田舎の世界である.しかし,林業の観点でポリスにとっては重要な公益相手であり,ポリスに準ずるものとして扱われていた.このマケドニアに生まれたアレクサンドロスがポリスを支配下におさめて東方の古代文明(エジプト,パレスチナメソポタミア,イラン高原)を征服していった.その結果,登場したのがヘレニズム文化である.ギリシア哲学に東方の技術が合わさることで学問もこの時代に大きく進展した.アレクサンドロス帝国はアレクサンドロスの死後に解体するが,エジプトにあったアレクサンドリアでは引き続き学問が進展することになる.この時代のアレクサンドリアで活躍したのがエラトステネス

ローマ

農業社会,ローマ

ローマは,当初は商業社会ではなく農業社会として発展したため,マケドニアと比べポリスからすると超田舎であった.やはり学問が育ちづらい環境だったらしい*2.当初は共和制の国家であったが,日本の地方政治よろしく,土地と(世襲の)役職を持つものが貴族(パトリキ)として政治に関与していた.土地を持たず役職のないものは平民.しかし,農業社会であったため,開墾が大きな意義を持っており,開墾に成功したものは新貴族(ノビレス)としてその後議会の担い手となる.彼らは元老院を構成することになる.

ポエニ戦争

さらに一方,北アフリカフェニキア人の商業域であった.ローマは,この地域をポエニ戦争で侵略してゆき,ローマは商業社会に移行してゆく.しかし,やはり学問は育たず停滞する.

ポエニ戦争カルタゴなどを手にしてイタリア半島外に進出したローマは,その後,旧アレクサンドロス帝国の領土を手にして地中海世界を制覇することになる.

紀元前1世紀の危機

ローマが徐々に商業社会に移行する中で,ローマでは内乱が生じた.農業社会派(元老院中心の閥族)と商業社会派(平民)が対立するのである*3.そこではローマ以外の新市民をローマ市民として代理戦争を行ったらしい.さらに,周囲の街同士が独立・反乱するなどして社会派混乱を極めた.学問も当然進まない.例えば,ヒッパルコスロードス島で天文観測に取り組んだのだが,当時,彼のように比較的平穏な島へ移動して学問に励む学者は多かったらしい.

帝政へ

混乱を極めたローマにカエサルが登場した.しかし,彼は終身独裁官として急激な改革を行った結果,王になる野心を疑われ暗殺されてしまう.その後,アウグストゥスにより帝政に移行し語検定の時代(いわゆるパクス・ロマーナ)へと至る.そこで,奨励があったこともあり,学問は再び発展することになる.この時代のアレクサンドリアで活躍したのがクラウディオ・プトレマイオス.彼は,名前から察するにギリシア人からの新市民だった可能性があるとのこと.

天文科学編

エラトステネスからヒッパルコス

ヒッパルコスの業績としては,

  • 星の等級を定義したこと
  • 現在に繋がる46星座を定義したこと

が挙げられるが,そもそも彼のモチベーションは地理学にあった.例えば,地球の大きさを測定したエラトステネスは太陽の南中を利用して,2地点の緯度差を,隊商の往復日数を利用して2地点間の距離を見積もり,両者を比較することで地球の大きさを推測した.しかし,この研究には問題点もあり,例えば,距離の測定には三角測量がより厳密だし,緯度差の決定も(点源を)より多く観測できればより精度よく決定できる.こうしたことを背景にヒッパルコスロードス島で観測を行い,天体カタログを構築するに至ったのだろう.

ヒッパルコスからプトレマイオス

プトレマイオスは,ヒッパルコスの観測データとの比較を通じて,恒星の天球面上における位置関係が普遍であること,そしてその恒星球に対して春分点が移動することを発見した.そして,その研究は『アルマゲスト』にまとめられている.ここで,恒星球の普遍性は,ロードス島での観測に基づくヒッパルコスのカタログとアレキサンドリアでの観測に基づくプトレマイオスのカタログとの比較をもとに語られている.

しかし,プトレマイオスは自身の観測を行わず,ヒッパルコスの観測データをそのままの形で『アルマゲスト』に自身の観測として掲載した可能性が指摘されている.その証拠に,本来ならロードス島から見えず,アレキサンドリアからだけ見える天体がカタログに掲載されるはずだが,その情報が一切見当たらない.アレキサンドリアロードス島より緯度にして5度南に位置する.従って,天球面上でアレクサンドリアからは5度だけ赤緯の小さな天体がカタログに掲載されるはずだが,そのような天体は掲載されていない.もちろん,掲載する必然性もないのでこれはあくまでも疑惑である.ただ,春分点の移動に関して,彼の生きた時代であるべき春分時刻と彼の観測値にはずれが見られ,プトレマイオスは観測データを自身の理論に「合わせた」ことがまた別の場面で語られている.従って,プトレマイオスのカタログについても捏造の可能性が極めて高いといえる.

その後,1400年間天動説を世界に受け入れさせ,天動説の「バイブル」とも言うべき『アルマゲスト』は捏造疑惑を含んだ書籍なのである.

以上が講義の内容である.

天文科学のパートでは『アルマゲスト』の和訳版をもとに模擬論文をつくり,生徒に捏造疑惑に気づけるか「査読」を体験して貰った.注意深く読まないと捏造疑惑が見つからないことが身をもって分かったと信じている.
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後悔すべくは通勤時に個人的にトラブルがあり,準備不足となって時間をオーバーしてしまったことである.新学期直後だけあって1時間の使い方に不慣れなところがあり,まさに休みぼけの状態であった.しかし,緻密なはずの天動説がこのように杜撰な側面も含むことは意外性をもって興味深く捉えてくれたようである.次回はこの杜撰な側面も時代背景を踏まえれば必ずしも杜撰とは言い切れないという筋で講義を進める予定である.

*1:rinsan.hatenadiary.com

*2:いまの日本における地方と同様だとか.日本においては確かに学問と経済の両中心の分布には相関がある.それらが一致しないのは国などトップダウンで大学を地方に設置したときぐらいだろうか

*3:TPP参加でもめた日本国内を想像すると良いらしい

年越しヨーロッパ

年越しはドイツの友人宅で過ごした.なんでも花火は現地では法律で禁止されているが,年越し前後の数時間のみ許されているとか.そのおかげで,年越し瞬間は日本の花火大会顔負けの打ち上げ花火が,全て個人による市販品で上げられていた.通りは煙だらけだし,翌朝の通りはゴミだらけだしで,静かな大学都市らしからぬ情景だった.巷では同じくドイツにおけるケルンでの婦女暴行事件が賑わっているが,普段落ち着いている小都市でも大賑わいだったのだから中心都市ではこういうことも起こりかねないのを実感したものだ.
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さて,旅行ではヨーロッパにフランクフルトから入り,パリで出る行程をとった.フランクフルトに2泊,ハイデルベルクに3泊,ナンシーに2泊,ランスに2泊の9泊11日.いわゆる社会人の身としてはずいぶん余裕のある旅であった.もちろん,その分実りも多かった.

フランクフルトの中日では日帰りでケルンを訪れたのだが,正直,フランクフルトとともにいまいちな場所だという印象を抱いた.春にミュンヘンで乗り継ぎがあったときに5時間ほど待ち時間があったので2時間だけ市内に滞在したのだが,ミュンヘン第2次世界大戦で廃墟となったので,現在の街並みはその後再建されたものである.ケルンも同様に大聖堂以外は再建されたものに過ぎず,観光客の多さと相まってどうしてもテーマパークのような印象を拭えなかった.フランクフルトから日帰りで約50ユーロかけたのだが,もう一度同じ費用で同じ場所に行きたいかと問われるとNOと答えるだろう.フランクフルトもミュンヘンもまたしかりであるが,両都市は乗り継ぎの時間つぶしに市内に出かける分には手頃で良いとは思う.

一方で,ハイデルベルクと,そこから日帰りで訪れたネッカシュタイナッハ,ネルトリンゲンは良かった.観光客が少なく,観光地として手垢がついていない,先の表現を借りて言えばテーマパーク化していない土地である.そのような場所では地元の人もその地本来の生活をしているようで,こういう場所こそはるばる訪れる意義があると実感した.あるいは,ドイツの場合,例えばフランスのように経済が一都市に一極集中しておらず分散しているので,有名な観光地でも経済の中枢となりうるのでどうしても味気なくなってしまうのだろう.

さて,フランスのナンシーとランスだが,こちらはどちらも素晴らしかった.前者は,アールヌーボとロココ建築が小さな範囲に凝縮されており,たとえ観光客が多かろうと美術史を抑えながら街を歩くことでその良さを痛感できた.後者は何よりシャンパーニュ地方の中心,そうシャンパンの産地であり,美酒好きにはシャンパン・カーブ巡りだけで2泊3日の価値が見出せるだろう.ナンシーは今回の旅行でベストな土地だった.

次の春は研究の都合でハワイ,おそらく学校の旅行引率で韓国となるため,プライベートの観光旅行は次の夏になりそうだ.去年の夏はオーケストラの演奏会に載ることにしたので長い旅行へは赴けなかったが*1,そこでは少し長い旅行を考えている.具体的には,飛行機でアンカラに入ってナヒチェバン共和国(アゼルバイジャンの飛び地)を通ってイランに入る.そして,イランをぶらぶらしてからトルクメニスタンを通ってウズベキスタンに入ることを画策中だ.トルクメニスタンのビザが取れるか否かが肝である.

イランとウズベキスタンのビザが取れればトルクメニスタンのトランジット・ビザが理論上は取れるのだが,日本のトルクメニスタン領事館が受け付けてくれるか要確認なのだ.さすがに発給が確認できてる海外大使館で数日待つほどの余裕はないため.駄目なら現地旅行会社のツアーを頼むことになりそうだ.今のところ,イランのマシュハドからトルクメニスタンに入ってウズベキスタンのブハラに抜けたいのだが,こんなニッチな要望に旅行会社がつきあってくれるかというのと,バックパッカーしか通らないだろうこのルートで旅行会社を使うのは負けた気になるのが問題.トルクメニスタンは既に去年の冬に訪れているので飛行機でイランのテヘランからウズベキスタンタシュケントにスキップしてしまうのも手ではあるが…シルクロード複数回に分けてでも陸路で通る野望を叶えたいのでネガティブである.はてさて,野望は膨らむばかりで予習が楽しいこの頃である.

*1:1週間でアルメニア

渡欧

ドイツ在住の友人と新年を迎えるべくドイツに来ている.年末年始で安いチケットがなかなか見つからなかったため,マイレージプログラムの関係で,不本意ながら普段は乗らないJALを利用.B787だったのだけど,座席間隔が広くてエコノミーでも快適ですね.クリスマス過ぎて仕事納め前のたヨーロッパ線は比較的すいているようで,窓際の座席を2つ占有できた.

しかし,機内食のボリュームのなさはどうにかならないものか.おしゃれにはなっているものの,量が少なすぎる.大勝軒のつけ麺とか,頑張って商品開発したのだろうし,面白くはあったのだけど,各容器のスペースだけとるのでトータルの満足度は低い…

12時発,16時着の便だったので,機内ではひたすら映画を見ていた.見たものを覚書.教養として見ておこうかなという作品路線でした.
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『1984年』

昨日まで顧問を勤めるワンダーフォーゲル部の合宿引率だった.これまでの引率では生徒と同じテントに一緒させて貰ってたが,今回は新しい顧問用テントを手に入れたため2人用テントを1人で使えた.明け方寒い以外は快適で,QOLが著しく改善したためストレスなく過ごすことができた.

さて,夜にやることがない都合,鈍行で滋賀県まで移動する生徒に帯同する都合で,手持無沙汰な時間が多かったため,以前から読もう読もうと思ってたG.オーウェルの『1984年』を読了できた.これまで北朝鮮トルクメニスタンキューバ,中国と社会主義とされる国に訪れたことのある身としては大変興味深かった.
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専門ではないのでWikipediaで以前調べた範囲の内容になるが,マルクス主義に基づくと共産主義に移行する前段階が社会主義であり,その段階では革命を導く指導者の存在が許されている.だが,現存するどの国家も共産主義に達することはできておらず,社会主義で止まってしまっている.革命の途上にあると言えば聞こえは良いが,それは方便にすぎず,権力を手にした指導者ないし指導者層は結局その立場に甘んじてしまうのだろう.『1984年』は,この方便に対して以前から抱いていた考察が整理されたものが書かれている印象であった.目新しい知識はなくとも,手元にあった知識を体系化する書籍はとても身になる.

例えば,北朝鮮では金日成の死去に伴い金正日が党の主席を継いだことに対して,現地の様子を見て,金一家の威光というのは国家を維持するためのシステムの一部に過ぎないことを薄々と感じたものだ.それはトルクメニスタンでも顕著で,彼の国は,ソ連崩壊に伴い国家のアイデンティティを探すにあたり,大統領自身を神格化する道を歩んだ.キューバではカストロ議長自身の偶像化は避けた者の,死去したチェゲバラを英雄として讃えている.『1984年』では権力の維持システムの一部として「偉大な兄弟」の存在が書かれており,実際にこれらの国家と重なる部分も多い.

また『1984年』では,人工的に言語を簡略化することにより思考の自由度を奪う旨が描写されているが,これは(意図とは異なるものの)中国における簡体字の導入を彷彿させる.あるいは描写された相互監視社会のあり様は北朝鮮で感じた閉塞感に同じである.ソ連をモデルにしてるとは言え,1948年に書かれた小説に見られる描写が,未だに2010年代に訪れた独裁国家のあり様に重なるのは大変興味深い.

以上はとり急ぎのメモ書きである.機会があれば改めて整理された記事としてまとめ直したい.