空と君のあいだに

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Program note

演奏会のプログラム・ノートを書くのが好きだった時期がある.以前,Jugend Philharmonikerというアマチュアオーケストラに深く関わっていたのだが,その頃に2-3回ぐらいプログラム・ノートを書かせて貰った.
jugend-phil.com

アマチュアオーケストラのプログラム・ノートに限って言えば,ポケット・スコアの冒頭に載っているような楽曲の分析や音楽史的位置づけなどは最小限で構わないと考えている.そもそも,Wikipediaなどweb情報が氾濫する現在,そんなすぐに調べれば分かるような情報を1000部は刷るであろうプログラムで敢えて配布する意味が,僕には分からない*1Wikipediaの情報がソースになるぐらいなら,Wikipediaの該当記事へのリンクとなるQRコードを示してくれた方が親切だろう.

では,どのような内容がアマチュアオーケストラのプログラム・ノートとしてふさわしいのか.飽くまでも持論ではあるが,Wikipediaだったら「独自の研究」と指摘され冷たい視線にされるような内容こそ,その内容にふさわしいのではなかろうか.大概はその分野の素人が書いているのは分かっている.ならば,素人だからこそ抱いたその曲への解釈を展開してしまえばいいじゃないか.その解釈が妥当だったかどうかは聴衆が判断すれば良い.言うなればプログラム・ノートは奏者が本番を迎えるにあたり抱いている楽曲への仮説で良いのではなかろうか.

例えば,以前僕がラフマニノフ交響曲第2番について書いたもの*2

 エスニックジョークというものをご存知だろうか.民族性や国民性を題材にした小ネタで,例えば代表的なものとして「無人島ジョーク」と呼ばれるものがある.
  1人の美女と2人の男性が無人島に漂流したとき.
   イタリア人.何の気兼ねもなく2人の男は共に1人の美女を愛する
   ドイツ人.1人の男は美女と結婚し,残った1人は戸籍係になる.
   日本人.どうしたら良いか本社に問いあわせようとする.

ジョークの解説ほどむなしいものはないが敢えて述べると,これらは「イタリア人=プレイボーイ」「ドイツ人=規則好き」「日本人=会社人間」という傾向を揶揄したものであろう.この手のジョークはステレオタイプな一面を持つ一方で,その国や民族の文化的・歴史的な背景をある程度は示唆しており興味深い.さて,この無人島ジョークには以下のようなものもある.

   ロシア人.美女は愛していない方と結婚し,3人で海辺に座って嘆き悲しむ.

きっと彼らの「大袈裟なほどに感情的な」側面を感じ取れるだろう.
 余談が過ぎた.ラフマニノフは人間の内面を映し出したロマン派のロシア人作曲家である.ロマン派の交響曲では「苦悩」から「葛藤」や「やすらぎ」を経て「歓喜」に至る「暗から明へのプロセス」が描かれることが多く(ベートーヴェンの「運命」や「合唱付」を考えて欲しい),交響曲第2番もその典型と考えられる.このような交響曲が書かれるにあたっては作曲家を苦悩たらしめる「悲劇」があるものだが,ラフマニノフの場合は交響曲第1番初演の不評がそれに相当する.この不評自体は初演時の指揮者が不勉強だったことに由来すると言われるが,とにかくこれがきっかけとなり彼は神経衰弱に陥ってしまうのだ.その後,暗示療法による治療やピアノ協奏曲による成功などで彼は復調のきっかけを掴み,交響曲第2番に取り組む.
 ところで,「中二病(ちゅうにびょう)」というスラングがある.思春期にありがちな自意識過剰に由来する言動傾向を「小児病(しょうにびょう)」になぞらえたものだ.ちょっとした不幸をもって「自分は悲劇のヒーロー/ヒロインに違いない」などと思い込んでしまうのもその「症例」の1つだろう.少し考えてみて欲しい.これは先に述べたロマン派の交響曲を書く作曲家そのものではないか.「狂人と天才は紙一重」とはよく言うが,「作曲という行為を通した欲求不満の昇華」が優れたものであるかどうかだけがその違いであれば「中二病と天才も紙一重」なのかもしれない.
 ラフマニノフ交響曲第2番が優れた作品とされるのは,決してその甘美なメロディーだけにあるのではない.一歩間違えば単なる中二病に陥るロマン派交響曲に「大袈裟なほどに感情的な」ロシア風味を加え,絶妙な「危うさ」の上に美を築き上げたところにこそその魅力があるに違いない.

少なくとも僕はかの楽曲に対してオーバーリアクションという印象を持ったので,妥当な説明か否か誤解を恐れずに中二病という言葉を当てはめてみた.そして,エスニックジョークとあわせてロシア人の感性なども書いた*3が,これは独自の解釈であり,正しいか否かは分からない.むしろ,間違っているかもしれない.だけど,間違っていようが個々の聴衆がこの楽曲に対して一つの視点を持つきっかけとなれば万々歳だと思っている.実際のところ,アンケートでは「ふざけるな」という叱咤も頂いたりもしたが,同時にその視点を持って楽曲を聞いた感想もあったりして,目的は達成されたように記憶している.


さて,次の3月にオーケストラ・パレッテなるアマチュアオーケストラで,久しぶりにプログラム・ノートを書こうかと考えているのだが,はてさてどのようなものが良いだろうか.
palette.wpblog.jp

*1:「どこそこで誰々の指揮により初演された」などという情報単体がその演奏会で意味を持つことに僕は懐疑的だ

*2:2011年3月のJugend Philharmoniker 第4回定期演奏会のプログラムより

*3:ところで,このノートを書いた当時『坂の上の雲』を読んでいたせいもあり,第2段落は司馬遼太郎の言い回しを真似している.実はこのエッセイ自体が中二病を演じている点でまた秀逸だと今からでも思うのだが…はてさて