天文学史におけるイスラーム世界の役割
引き続き,天文学史の講義の概要.前回の内容はこちらにて.
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前回までで,地中海世界で育まれた天動説理論の話はひと段落.今回は地動説への転換に向けてイスラーム世界に触れた.スケジュールを組む段階では,この回は全体の流れから浮いてしまうのではないかと危惧していたが,それは杞憂だった.チームティーチングという形式に慣れてきたのもあるが,世界史教諭の方と非常に良い掛け合いができたと思う.以下,概要をまとめる.
ルネサンス前史
天動説から地動説への転換には価値観がまず変わらなければならない.従来,アリストテレス的な宇宙観を含む理論が重視されてきたために天動説が大きな位置を占めてきた.ルネサンス以降ではこれが観測術の正しさに重きが置かれるようになるが,そのターニングポイントがどこにあるのか眺めるのが今回の講義である.
帝政ローマの保守化
313年,帝政ローマはミラノ勅令によりキリスト教を国教とするようになる.これは,パレスチナなど現在のキリスト教が聖地とするような地がローマ帝国の領土になったことが遠因になるのだろう.
395年,ローマ帝国は東西に分裂する.この当時,経済の中心はバルカン半島以東であり,帝国を分割統治するにあたり正帝がいわゆる東ローマ帝国を,副帝が西ローマ帝国を統治することになる.西ローマ帝国は「田舎」であり,ギリシアの知識は東ローマ帝国に引き継がれることになるが,時代が進むに従いキリスト教に都合のよい学問のみが残るようになり,都合の悪いものは排除されるようになる.このとき,排除された学者はササン朝ペルシアに逃れる.
知識の中継点としてのイスラーム世界
結果的に,ペルシアは学問を後世に引き継ぐにあたり都合のよい土地であった.紀元前4世紀のアレクサンドロスの東方遠征によるペルシア支配以来,現地にはギリシア語話者が残っていた.彼らはギリシア語とペルシア語の両方を話し*1,東方に逃れてきた東ローマ帝国の知識を吸収する.多くのギリシア語の学術文献もペルシア語に翻訳される.
その後,ペルシアはイスラーム化されることになる.イスラム共同体の中で生まれた王,カリフがこの地を統治するようになる(アッバース朝ペルシア).この当時,イスラム教徒であれば民族問わず「国民」になれた.従って,民族的には多様性に富んだ集団であり,戒律などには比較的寛容であったらしい*2.
12世紀になるとユーラシア民族がペルシアに侵攻する.イル=ハーン国,いわゆる元だ.このとき,中国の実学的な思想がペルシアに流れ込み,価値観の転換が進む.ここで,中国の実学とはどのようなものだろうか.例えば,暦を考えると分かりやすい.地中海世界では太陽暦をこの当時用いていたが,中国では太陰暦を採用していた.しかし,太陰暦では太陽年での1年と月の数がずれてしまう.そこで,この観測結果にあわせるように閏月を入れ辻褄をあわせる.あくまで観測重視なのだ.これが,ギリシア人だと理論の構築に技を求めたのだろう.
イル=ハーン国はやがて滅びるが,その後,中央アジア諸国を統治したティムール朝で地中海世界からの知識と中国での実学的な思想が出会う.シルクロードの交易拠点であり,資金が豊富だったこともあり,多くの学問所(マドラサ)が設けられるなど学問が発達する.この地域では「イスラームの倫理学(文献学)」と「インドの倫理学(観念的)」と「中国の実学」と「ユーラシア交易による経済力」が結びついたのだ.
イスラーム世界における天文学の例
先に述べたようにティムール朝では学問が奨励され,天文学も発達する.これはある程度必然的なできごとである.イスラム教では礼拝のために「メッカの方角」や「時刻」を正確に把握する必要がある.また,大陸交易では現在地や方角を正確に知る必要がある.
さて,ティムール朝の第4代君主であるウルグ・べクは天文学者でもあった.サマルカンドには「ウルグ・ベク天文台」の遺跡が残っている.そこでは太陽年の長さを25秒の精度で計測していたらしい.これは後世にコペルニクスが測定したものより正確であったようだ.現地に残っているのは,その際に使った四分儀の一部である.半径約40mの四分儀を用いて,太陽の南中高度を1分角を切る精度で精確に計測していた.
さて,この精度は妥当なものだと容易に計算できる.人間が目測で0.1mmの精度で長さを測定できるとすれば直径10cmの分度器での角分解能は約0.1度となる.これが直径100mなら0.0001度である.太陽の南中高度は半年で約50度変化する.これをは1分あたりで1/6000度,つまり0.0001度になる.講義では分度器を用いて紙面上の角度を測って貰い,ばらつきを確認して,ウルグ・ベク天文台の四分儀の大きさを見積もって貰った.イスラーム世界を経由した天文学
ウルグ・ベク天文台に付属する博物館には数多くの天文観測装置が収蔵されていた.講義の最後にこれを簡単に紹介するとともに,日本国内にもそれらが暦とあわせ江戸時代に輸入されていたことを紹介した.具体的には,貞享暦を定めた渋沢春海の肖像画には渾天儀が描かれているが,渾天儀に相当するものは元の正史にも記述があるし,博物館にも収蔵されている.また,貞享暦は元でつくられた授時暦に時差の補正をしたものである.あるいは,博物館に収蔵されているアストロラーベと呼ばれる計算器具は,プトレマイオスの『アルマゲスト』の補遺で使用法について解説されている.これらの知識がルネサンスで西洋に導入されるのだが,それはまた次回の話.