空と君のあいだに

研究と教育と日々の,思考整理の場

ビルドアップ走

趣味の一つにランニングがある.職場の何人かで出たハーフマラソンを90分ちょっとで走れているので,それなりに速い方ではある.もちろん,それなりのトレーニングも積んでいる.月間100km届かないぐらいだけど.

ところで「人生はマラソン」とはよく言ったものだ.もちろん,長くこつこつ距離を積み重ねなければならないという意味でもそうだし,スタート地点がばらばら*1であるという意味でもそうである.しかし,それ以上に,自分の生き方が重なると個人的に実感する点でも「人生はマラソン」である.

昔から何かにつけて他人と自分を比べてしまう性質があって,研究職に就くのは無理だなと思った点もそこにある.しかし,どうやら私は他人と比べるだけでなく過去の自分とも比べてしまう性質らしい.練習にてイーブンペースで10km走ると最初に決めても,どういうわけかビルドアップ走(徐々にペースをあげてくことで持久力を鍛える練習)になっていることがしばしばある.こつこつと距離を積み重ねる意志より,以前の自分より遅くなってはいないかという強迫観念に取りつかれて走っているのだろうか.もちろん,時計をラップ毎に見つつ走ればさすがにイーブンペースで走れるのだろうけど,数周ごとの確認だと自然にペースを上げてしまう*2.そんなこんなで,ここ数年痛感してる自分の性格について妙に納得してしまうのであった.

*1:東京マラソンなんて,後方のランナーはスタートラインを踏むのに20分かかると聞く

*2:単にペースが体に染みついてないだけで片付くのかもだけど

情報戦

そういえば,先日,授業中に生徒から女性の胸と尻のどちらが好きか聞かれた.相変わらずの男子校テンションである.聞くところによると同僚教員はそれに回答したとか.だから,私にも答えよと迫ってくる.そのうち,どういうわけか「だから,先生は独身なんだ.○○さんは結婚してるのに」と.余計なお世話だ.さて,私の返しはというとこうだ.「○○さんの奥様にお会いしたことあるよ」と.そうすると生徒は「えっ,どんな人?!」と来る.立場は逆転,こちらが会話の中で優位に立つことになる.情報を持つ者は強いのだ.

この記事を書くために振り返ってみて思いついた.こちらがほのめかす情報を必ずしも自分が持つ必要はないのかもしれない.ここで大事なのは相手に自分が情報量で優位に立ってると思わせることである.先の例で言えば,別に○○さんの奥様にお会いしてなくても良いのだ.生徒との(くだらない)追究をかわす術として使えるかもしれない.

そういえば,この手の戦術は『ディプロマシー』というボードゲームで頻繁に用いられている.『ディプロマシー』は第1次世界大戦におけるヨーロッパを舞台とした陣取りゲームなのだが,プレイヤーは他のプレイヤーと交渉することで自軍の駒を動かす.ここで,自分の絡まない交渉は見えない.従って,他のプレイヤーがどのような情報を持っているか分からず,疑心暗鬼に苛まれながらも同盟したプレイヤーを信じたり裏切ったりすることで覇権をめざすことになる.この『ディプロマシー』,下記のサイトでプレーできる.
Diplomacy MOE2
素晴らしいことにプレイヤー同士の会話が全てログとして残っている.このログを解析すれば,情報戦のなんたるかを分析できると思うのだが….さすがにそんなスキルは自分にはないので,スキルとヒマを持ったどなたか取り組んでみて下され.

星図観察

本校の土曜3,4限では「教養総合」と銘打った選択講座を高校1,2年生対象に開講している.1,2学期は特殊相対論の講座を開いたのだが,3学期は社会科教諭と組んで天文学史の講座に取り組んでいる.昨日の土曜がその初回.

初回ということで,それぞれの教員がガイダンス的な話をしただけで終えたわけだが,自分が話す番ではない方で久しぶりに「先生の話」を聞くとタメになる部分が多いですね.話しのテンポとか.もちろん,内容も充実していましたよ.以下,自分向けの要約.

アリストテレスの登場まで

古代の学者は世界をなんでも同じ理屈で説明しようとした(例えば,音楽と物理).当初,それは全て神の仕業として理解されており,例えば人間同士の仲が悪いのはその守護霊同士の仲が悪いからだというように解されていた.ところが,人間世界のことは人間にも理解できるのではないかというわけで自然哲学が登場する.その探求に取り組む人々はどのような背景で登場したのか.答えはポリスにある.ポリスの市民は直接民主制で政治に取り組んでいたが,ここでいう市民は「貴族のみ」「有産市民」「無産市民」と時代を追うごとに広く捉えられるようになる*1.ここで,無産市民が市民権を持つと,学者は教養のない?彼ら向けに弁論術の家庭教師を勤めるなど功利的な方面へ走ることになる.そんな中,再び自然探求を重視したのがソクラテス.その姿勢はプラトンアリストテレスへと引き継がれ,後の学問への伏線がしかれる.

プトレマイオスの登場まで

ところで,多くの思想家を生みだしたアテネペロポネソス戦争を機に衰退を始める.そこで,台頭したのがマケドニアアレクサンドロスの遠征によりペルシア文化とギリシア風の文化が融合する.そうなると,神を前提に物事を考える思想家は困ったことになる.ギリシアの神を念頭に自然現象を解釈していたのだが,そこにゾロアスター教という「わけのわからない」宗教が入りこむのだから.ただ,その中においてでも,姿勢のぶれなかった集団がいる.それが自然哲学者やその後継にあたるソクラテス一派.多様化の進む世界にあって彼らは「ポリスのため」ではなく「自分のため」に学問を志すことになり,その風潮が古代ギリシアにおける天文学の大家,プトレマイオスを生む土壌を与えることになる.

事前打ち合わせの通り,古代の宇宙観形成で大きな役割を果たしたアリストテレスプトレマイオスに伏線を張ってもらうためにヘレニズムを概説して貰った.次回以降,中世や現代科学に彼らがどのように繋がっていくか話を展開する予定.

ところで,私の担当分講義の方はというと,DSSから取得したパロマーチャートで10枚程度でオリオン座を作って貰い,星の数を数えさせてみた.1つのパロマーチャートの一辺は6.5度で,20等星まで写っているらしい.実は星の数自体を数えさせることは主眼ではなく,本当の狙いはそこに注目することで分角,ないし秒角のスケール感覚を磨いて貰うこと.大体,撮像された星同士の感覚が数十秒角なのです.これが分かれば,年周視差の1秒角がどれぐらいか,当時の測定精度がどんなものか,当時の望遠鏡でどこまで分解できるか分かるようになるかなと.

以上に加えて,相対運動を観測しただけでは観測者が動くか観察対象が動くか区別できないよねという話もちょこっと.天動説か地動説かの議論においては,もちろん天体運動を測定することが解決の鍵になるのですが,相対運動を見ただけでは区別ができないので「それ以外の証拠」が必要になるわけです.それをこれから議論するよという予告なようなものでした.

全体的に寝る生徒もなく,概ね好評だったようですが,個人的には本当は普段からこんな授業をせねばならんのだなぁと反省反面でもありました.まぁ選択講座だからモチベーション高い生徒が集めってるからこそできる授業ではあるのですが.高校の授業はこれが難しいですね.

*1:有産市民の台頭は重装歩兵としての活躍,無産市民の台頭はペルシア戦争での三段櫂船での活躍がきっかけてなっているようだ

しんぷるいずべすと?

複雑怪奇な現象を簡潔に説明できると美しく感じる.もっともなことだ.だけど,簡潔に説明できたことは,簡潔に説明できることを目的としたがゆえの結果かもしれない.

高校時代に物理の美しさに惹かれて数物系に進んで今に至る.基礎方程式を積分すると保存量が現れ,系の挙動をきれいに説明できる.確かに簡潔で美しい.しかし,きれいに説明できる系しか扱っていないが故のバイアスが入りこんでいる可能性も否定できない.いわゆる文系の諸君の中には,この「美しさ」を理解できないことに負い目を感じる者もいるかもしれない.しかし,これは当人にとって本質的ではない.

世の中,基礎方程式で説明できない複雑な現象の方が数多い.考えようによってはその面白みに気づける方が鋭い感覚を持っていると言えるのではないか.高校の「理系科目」の美しさは「分かりやすさ」を優先した結果でしかないとも捉えられる.その「美しさ」を理解できなくたって気にしなくて良い.「美しい世界」はありのままの世界ではないとも言えるのだから*1.むしろ,僕からすれば,分かりやすさに騙されず,高校時代から人文社会系の学問に面白みを感じられる人にどこか羨ましさを覚える.

*1:多くの系で摩擦力がゼロの極限を考えるが,むしろ様々なパラメータに摩擦力が依存してしまうのが現実世界なので.もちろん,その極限はそこそこに現実世界を説明できるけど,逆に言えば説明できない部分もある.

対象を分野にあてはめるな

表題をむかし就職面接を受けた学校の校長の言葉.

日本人の大好きな二分法のひとつに「文系か理系か」がある.全くもって意味のない分類である.そもそも学問分野というのは連続的に分布しており,それを分類するには様々な方法があるのだが,どういうわけか日本人はこれを「文理」に分けたがる.しかも,その「文理」は実は学問分野の分類にはなっていない.単にその学問分野を専攻できる学部学科の入試で要求される科目で分類されているに過ぎない.つまり,「文系・理系」といった場合,学問分野の分類と,それを学ぶために必要な入試科目での分類の2つの意味を持つのだと僕は理解している.そういった背景を踏まえて,僕は「文系・理系」という言葉を発するとき,前者の分類を指すときは「人文系」ないし「数物系」と呼び,後者を指すときは「いわゆる文系(理系)」と呼ぶようにしている.

厄介なのは言葉の定義だけではない.高校での履修科目の選択は,多くの場合,入試で必要となる科目に基づく.従って,修めたい学問分野に必要となるだろう科目でも,入試に必要ないとなると切り捨てられうる.全く残念でたまらない.もちろん大学入試の重要性は分かるのだが,一方で大学入試に必要な最低限の勉強だけで済ませるのはカッコ悪いという風潮をつくれものだろうか.

面白いことに,例えば東京大学に入学すると進入学生は口々に「いかに勉強せずに受かったか」を自慢する(正確にはそういう人もいる).努力するのはカッコ悪いという風潮.90年代ジャンプ漫画が見て悲しむ.まぁ彼らの大多数はかなりの勉強をしているわけだが.個人的には,いかに入試に必要とされない勉強まで取り組めたかを自慢して欲しいと思う.エビデンスのない話だけど.

以上,いわゆる文系進学志望の生徒を主に担当している地学教諭の雑感でした.もちろん,少なくとも勤務校には希望もありますけどね.

bridal valley

本校の高校生が文集を自主制作したというので購入させて頂いた.A5判で200ページほど.まだ全ては読めてはいないのだが,対談から書評,論文まで幅広く,それでいて発散していない印象を受けた.よくまとまっている.評価につながるから,などという仮言命法的な動機ではなく,それ自体が自身のやりたいことで活動しているようなので感心する.何事も中途半端な自分からすれば羨ましいエネルギーである.

なぜか挿絵にわたしめのイラストが登場するので拝借してみた(許可取得済み).いろんな場面で使わせて頂こう.なかなか似てると思う.

さて,若者世代の婚姻率が下がる昨今である.結婚というイベントが2体の衝突と考えるなら,SNSの発達したこの10年は若者が良い出会いを得るチャンスだと捉えることもできる.例えば,随所で存在が語られるネット右翼も,web空間上で立った右翼という旗の下にわらわらと人が集まるからこそ生まれたものだと理解している.意見分布が収束するタイムスケールは短くなっているのだ.もちろん,収束するのが1点ではないところに大いなる問題があるのだが.

さて,出会いに話を戻そう.SNSが発達しても,SNSで出会った人同士の結婚は,まだ現実世界で知り合った人同士の結婚ほどはメジャーではないのは,誰しもが実感するところだろう.世論のクラスタリングかのタイムスケールが短くなってでもである.なぜなのか.

そこで思いついたのが「不気味の谷」だ.デフォルメしたロボットは愛嬌を持つ一方で,生身の人間に近づけても,ロボットに対する親近感は単調増加しない.むしろ,嫌悪感すら覚える.この嫌悪感が「谷」と表現されているわけだ.これは先に話に挙げたweb上で出会った人同士の結婚でも同じだろう.web空間上で知り合った人同士,ある程度まではクラスタリングが早く進む.しかし,結婚までは辿りつかない.谷を越えられないから.

ところで,ここまで書いて気づいてしまった.別に谷を越えなければならないのはweb空間上での出会いに限らないと.長々書いたものが駄文に帰してしまったわけだが,一応これも記録として留めておこう.

再開,再会

修士論文を書いていた数年前,息の詰まる日々の気分転換にとTwitterを始めたものの,Twitterではその場で思ったこと・考えたことを垂れ流すだけで,結果,思考の整理を全く行わなくなってしまった.そんなわけで,あとで見返せるまとまった文章を書く場としてBlogを再開することにしました.はてなブログと再会する運びとなったわけです.タイトルはもちろん中島みゆきさんの楽曲から頂いているわけですが,天文研究(空)と中等教育(君)を主戦場として生きている自分を上手く表せる言葉と思ってのことです.楽曲の中身とは関係ありません.

何をどの程度・どの頻度で書くのかは少しずつ考えてゆくつもりです.思考の整理の場という趣旨からして,あとで読み返せる内容かつ継続できる頻度でがんばろうと思います.旧Blogを見返して恥ずかしくなった点を戒めとして記しておきます.
- あまりに口語的かつ論理の不明瞭な文章は避ける
- 上記のクオリティ維持のため,1日に複数トピックを書くことは避ける
- 中二病的なポエムは厳禁
ぐらいは最低限心がけたいものです.